「―――おはよう」
始め、それが自分に向けられたものだと気づけなかった。
理由その一:私は家を出る時間が普通のより早く、あまり他の生徒とすれ違わない。
理由その二:そもそもあまり友達がいない。
理由その三:数少ない親しい友人である華凛の声ではなかった。
以上三点により私はこの声をスルーしかけた。しかけたところで、声に聞き覚えがある事に気が付いた。
「・・・・・・っ!?」
気が付いて、振り返る。
果たしてそこに立っていたのは遥先輩だった。
「・・・えっと、覚えてるかな」
覚えていないはずがない。
憧れのあまり昨日ついに練習中の姿を拝見しに行き、あまつさえ帰宅をご一緒させていただいたのだ。
「も、もちろんです!見城遥先輩!2年4組、バレー部所属!2年にして部を牽引するエース!趣味は読書で好きな食べ物は甘い物!そ、それから―――」
覚えていないはずがない。そんな風に思われてしまってはまずい。
そんな思考回路から、知る限りの先輩の情報を謳い始めた私に、しかし遥先輩はお腹を抱えて笑いをこらえているように見える。
「・・・ぷっ・・・うくっ・・・」
「あ、あれ・・?えっと、あの・・・」
何故笑われているのかわからない私は、どうしてよいかわからずにその場でおろおろし始めた。
やがて先輩は落ち着いたのか目じりの涙をぬぐって言った。
「いや、大丈夫だよ。思った以上の熱量で返ってきたからすこし驚いてね・・・」
そう言われて気が付いた。
客観的に見れば一目瞭然。先ほどの私の勢いはどう考えても異常だった(諳んじた内容もまた異常だ)。
自分がどれだけおかしな事をしたのかわかって顔が真っ赤になる。
「す、すみません!私は別にあの、特に何かあるとかえっと、そういうわけじゃないんです!ただえっと・・・つまりその―――」
口を開くほどにドツボにはまっていく。
完全にパニック状態の私を宥めるように先輩が笑った。
「いや、本当に大丈夫だから・・・落ち着いて?」
先程までとは違い、抱擁してくれるような笑み。
気恥ずかしさは覚えつつも少しだけ心が落ち着いた。
「えっと・・・ごめんなさい」
謝ってばかりが良くない事はわかっているのだが、何と返してよいのかわからずに私はもう一度頭を下げた。
そうして心が落ち着いて周りが見えてくると、私は先輩から朝の挨拶をされたのだということにようやく気が付いた。
「はわっ!あ、おは・・おはよう、ございます・・・」
改めてお辞儀をした。
動作に合わせて垂れた前髪の隙間から、先輩の引き締まったふくらはぎが見える。
「うん、おはよう」
顔を上げると先輩と目が合う。
それだけで鼓動が際限なく跳ねていく。
「登校だよね?良ければ一緒にいいかな」
そしてその言葉を聞いて、私の心拍数は最早病気の域に達していたのだった。
(な、なにがおきてるの・・・!?)
隣に遥先輩がいる。
こちらの視線に気づいたのか、目を合わせて微笑んでくれる。
「―――っ!」
慌てて視線を落とす。
いや待て、今のはかなり失礼なのでは!?
「いやあのですねっ!?」
「ん、どうしたの?」
「――――――!!!!!」
慌てて顔を上げるも、眩しい笑顔に負けてまたしても視線をそらしてしまう。
失礼云々を気にする余裕などなかった。
(だってあの遥先輩が!あの憧れの遥先輩がっ!!)
昨日からこれまで、私は混乱しっぱなしだ。
クラスメイトに無理やり連れていかれた練習試合の応援。そこで先輩に一目惚れをし、ついに練習を見に行ってしまったのが昨日。
そこからいきなり急展開が続きすぎている。
(私、もうそろそろ死ぬのでは・・・)
そう思えるほどの幸運の連続だった。
視線を上げないまま横を見ると先輩の長い脚が映る。そこから少し上げて膝上10cmくらいのスカート、さらに上げて私と同じ制服のシャツ。
さらに上げると細い首元が覗き、そしてその上に―――
「―――っ!!」
視線が混じり、三度私は地面を見つめなおした。
いかにも挙動不審な私を目にしても、先輩は特に何を言うでもなく一緒に歩いてくれている。
とても静かな空気。
車の通りもさして多くない為、私たちの歩く音だけが耳に届いている。
「恵子ちゃんで・・・合ってたよね?」
ふいに先輩が私の名前を呼んだ。
しかも恵子ちゃんと。
(恵子ちゃん・・・恵子ちゃんって!!)
羞恥と歓喜がごちゃまぜになったような感情。
「は、はい!高橋恵子と申します!!」
「申しますって・・・ふふ。
私の名前は見城遥と申します。お見知りおきくださいな」
艶やかに微笑む先輩。
天上の美貌に並ぶことのない才能、その上茶目っ気まで持ち合わせているなんて!
「それじゃあ恵子ちゃん。昨日は本当にごめんね。あの後、大丈夫だった?」
「あ、は、はい。痛みももうありませんし、こちらこそ―――」
「こちらこそはなーし!」
「は、はい・・・」
先輩に制されてしまった。
私は本当に自分のどんくささで迷惑をかけてしまったと思っているのだが、お互いに譲らないから無限ループに入ってしまう。
それがわかっているから先輩もそこで止めたのだろう。
「ん、じゃあこの話はもう終わり!それでね・・・」
手をパンと軽く叩いて話題を切った。
こういうマネは私には出来ない。
「これ間違ってたらすっごい恥ずかしいんだけど・・・
えっと、昨日は私の事を見に来てくれた・・・んだよね?」
背の高い先輩が少し腰を曲げて私の顔を覗き込んだ。
凛々しい先輩の上目遣い。破壊力がやばい。
「えっ!?いや、あの、そのっ・・・」
勿論その通りだ。
その通りなのだが、こう真正面から本人に問われると、どう返事をすればよいのだろう。
しばらく悩んだ末に、私は顔を手で隠しながら答えた。
「あの・・はい、そうです・・・」
血液が沸騰しそうだった。
今私の体温を計ったらインフルエンザと見紛うような数値が出るのではないだろうか。
「そっか、良かった!」
私の返答はどうやら正解だったようで、先輩は嬉しそうにまた手を叩いた。
肝腎の私はというと、何がどう良かったのかわからずにまたしても混沌の中。
「うんうん、そっかそっか」
先輩は何事か納得したようでしきりに頷いている。
嬉しそうにしているため問題はないと思うのだが・・・
そうこうしているうちに、いつの間にやら校門を抜けて昇降口へ辿り着く。
「恵子ちゃん」
「は、はい!」
ここからどうすればよいのかわからず、逡巡している私に先輩が声を掛けた。
「ありがと!それじゃ、またね」
そう言って先輩は階段を駆け上がっていった(この学校は上履きがなく土足のままだ)。
後には私がぽつんと残される。
「え、あ・・・」
呆気にとられた私はしばし先輩の上がった階段を見つめる。
(わ、私何でお礼言われたのっ!?良かったって結局何が良かったの!)
何一つ理解が追いつかず、結局私は他のクラスメイトが登校し、華凛に肩を叩かれるまでそこに立ち尽くしていた。